最近はまっている、哲学対話。コロナでオンラインでの開催が多かった中、週末、世田谷で行われたリアルな講座に参加しました。
「死ぬこと/生き延びること」というテーマで、講師の精神科医によるレクチャーの後、参加者による小グループでの対話を行いました。
哲学対話はルールがあって、それによって安全な場が保証され、自由に意見を言えたり、考えを深めることができます。
今回は哲学対話のルール説明がなく、レクチャーから入ったので、対話がどうなるかと不安に思っていたが、意識の高い参加者ばかりで、受容的な雰囲気の中、活発な意見交換が行われました。
哲学対話はいつも東大の梶谷先生の講座に参加しているけれど、今回の講座は勝手が違い、帰ってから心にずんとした辛さに頻繁に襲われた。
自分が思っていた哲学対話とは違っていたが、講師の先生の話も大学の講義を受けているようで、精神保健の世界から離れていた記憶がよみがえってきて、懐かしい感じがあった。
講座が終わって、依存症の自助グループでのピアカウンセリングと、哲学対話とでは何が違うのか?あるいは同じような作用があるのか?知りたくなって、講師に質問させて頂いた。
先生は自助グループにかかわったことがない、ということで、今度は先生が実際の治療において、哲学対話的なかかわりを精神療法で行うことがあるのかを質問させて頂いた。
そうしたら、思いもよらない言葉が出てきたではないか!!
「治療の中で、患者さんが、ぐっと固まることがあるのだけど、
そこをばきっと(ぐきっと?)関節を外すんですよ」
えっ??!
関節を外すんですか?!
「こころの関節外し」って、すごいですね!
今までPSWの学生の頃などに出会った、精神科医の先生方で、そんな表現を使われた方はいなかった。
こころの固まりが、身体に現れたのを感受し、身体の固まりを外す、という感覚、感性をもっていらっしゃる、こんな精神科医の先生がいるなんて!!
と非常に感銘を受け、一人興奮していた。
一体、治療の現場で、どんな技術を使っているのだろう?ととても興味が沸いた。
「こころの関節外し」か・・・
それから数日、その言葉が自分の中ですごい刺激になっていた。
週が明け、その話をお客さんに聞いてもらったところ、
「私は自分のことを先生に、誰よりも沢山、家族のことや色んなことを話していますよ」とおっしゃられた。
それは本当に嬉しいお言葉!
この施術の場で、心にたまった色んなことを出して、すっきりして頂けたら、こんなに嬉しいことはないです。
普段の身近な人には言えないことが、沢山ありますね。
話せる、というのは、安全でなければ出せないこと。
お客様にまた色々お話を聞かせて頂いているうちに、私の施術の場は、やっぱり身体の調整と同じように、こころの内部に溜まった緊張を、その人のやり方で、自由に出していって、解き放たれていくという感じなんだ、と思った。
先の先生は、関節をばきっと外す。
なんかカイロプラクティックのようなイメージが沸いた。
対して、私はやっぱりゆるーく、それぞれの人に任せて、自由にして解放してもらう感じ、なのだろうか。
「解き放たれた~」
ってよくお客様たちがおっしゃるように、
そんな場を皆さんと共に作っていきたいな、と思っています。
(つぶやきより、今日は長文になりました)